中村時広

昭和35年1月25日生まれ
趣味/読書、スキー、バドミントン
尊敬する人/福沢諭吉
座右の銘/至誠通天

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ダイアリー

2003年5月1日 「坂の上の雲のまちづくり 」

市長講演より〜

小説「坂の上の雲」の著者であります司馬遼太郎さんは、まさに20世紀を代表する作家と思いますが、四国とは大変縁の深い方でございます。愛媛県には松山ゆかりの「坂の上の雲」と「花神」、高知県には「龍馬がゆく」、徳島県には「菜の花の沖」、そして香川県には「空海の風景」という作品があり、各県で活躍した方々を主人公に小説を執筆頂きました。おそらく四国の地に特別な思いをお持ちになられていたのではないかと思うのですが、それが証拠に東大阪にある司馬家でお手伝いをされている方は、代々愛媛県宇和島市出身の方だそうです。

司馬さんは生前、四国を度々訪れていたそうですが、残念ながら私自身は直接お会いする機会に恵まれませんでした。その代わりに、この「坂の上の雲」をどうしてもまちづくりに活かしたいという強い願いを伝えるために、奥様とお会いする機会を頂きました。「坂の上の雲」には作者の特別な思いが込められています。数多くの作品を世に送り出された司馬さんは、この「坂の上の雲」だけはテレビドラマ化も映画化もしない、そう言い残されて亡くなられてしまったのです。

「坂の上の雲」は大変な長編作品でありますし、小説家として一番脂の乗っていた40歳代のほとんど全てをこの作品だけに費やされましたので、それだけ特別な思いもあったのでありましょう。また、映像化を許さなかった最大の理由は、たかだか2時間程度の映像では、作品を通じて伝えようとした明治時代の日本人の生き様や健全な精神というものが表現できず、視聴者には単なる日露戦史として捉えられかねないということに対する危惧であり、それ故にかたくなに拒絶されたということであったそうです。そんな経緯がありましたので、今から3年前に大阪にいらっしゃいます奥様をお訪ねしまして、自分が司馬作品とどうかかわってきたのか、「坂の上の雲」をどう消化したのか、どういう形でまちづくりに活かしてゆきたいのかなどについて直接お話しをさせて頂き、ようやく、松山市がまちづくりで使用することを許可していただいた次第でございます。

司馬作品と私の出合いはずいぶん古い話でありまして、10代の頃にさかのぼります。当時高校1年、15歳の時だったと思いますが、実は余り芳しい学生ではなく、入学早々登校拒否、数回にわたる補導、最後はお決まりのコースで停学にまでなりました。こんな時期が、実はあったのです。

精神的に大変不安定な青年期にどん底でもがきながら、その時に自分の今の有り様や将来のことについて、よくよく考える時間を持つことになりました。そして出会ったのが司馬作品だったのです。最初に読んだのはこの「坂の上の雲」ではなく、一番ポピュラーな「龍馬がゆく」という作品でありました。龍馬は多感な青年期に、あの桂浜から雄大な太平洋を眺め、この大海原を自由に闊歩したい、そのためには船だ、そのためには交易だと、どんどん夢を膨らませてゆきます。しかしながら、その時代はまだ幕藩体制でありますから、一人の青年がそうした夢を持ったとしても実現できる社会環境ではなかったのです。おそらく、その夢を実現できるような世の中にしたい、国にしたい、その思いが明治維新へと彼を駆り立てていったのではないかと思います。

価値ある人間の生き様というものはかくあるべし、そんなことを「龍馬がゆく」という作品から感じ取り、大いに影響を受けたような記憶がございます。

 

司馬さんの作品に魅せられた私は、次なる小説を選ぶために本屋へ足を運びました。書棚に並ぶ作品を片端から引っ張り出していると、何と1ページ目から故郷・松山が出てくる小説があるではありませんか。それが「坂の上の雲」との始めての出会いでした。この「坂の上の雲」については、先程お話しさせて頂きましたけれども、とかく日露戦史のように捉えられてしまうのですが、実はそうではありません。この作品の主人公は、一に間違いなく「正岡子規」という人物でございます。